阿倍野(あべの)王子社(おうじしゃ)歴史(れきし)



当神社(とうじんじゃ)は、和歌山県(わかやまけん)熊野本宮(くまのほんぐう)新宮(しんぐう)那智大社(なちたいしゃ)末社(まっしゃ)

阿倍野王子(あべのおうじ)と呼ばれた王子社(おうじしゃ)です。




王子社(おうじしゃ)」とは中世(ちゅうせい)熊野街道(くまのかいどう)沿()って

熊野詣(くまのもうで)途中(とちゅう)休憩(きゅうけい)遙拝(ようはい)(ため)のお宮として

たくさん設けられた神社の一つで

熊野九十九王子(くまのきゅうじゅうきゅうおうじ)」とも呼ばれ

土地の名を付けて、「○○王子(まるまるおうじ)」と呼ばれました。





つまり当社は阿倍野(あべの)御鎮座(ごちんざ)しておりますので、

阿倍野王子
(あべのおうじ)
と呼ばれました。




王子社(おうじしゃ)は普通は氏神様(うじがみさま)とは別に(まつ)られ

いずれも五十坪(ごうじゅうつぼ)から百坪程度(ひゃくつぼていど)の小さいお宮でしたので

明治四十年(めいじよんじゅうねん)勅令(ちょくれい)

近くのお宮に合祀(ごうし)されて

現代ではほとんど無くなりました。




(さいわ)当阿倍野王子(とうあべのおうじ)古来阿倍野村(こらいあべのむら)氏神様(うじがみさま)でしたので

他所(たしょ)への併合(へいごう)(まぬが)れて現在大阪府下(おおさかふか)では

唯一(ゆいいつ)旧地(きゅうち)現存(げんぞん)する王子社(おうじしゃ)となっており

その他の王子社(おうじしゃ)はほとんどが旧地(きゅうち)王子跡(おうじあと)石碑(せきひ)が残る状態で
和歌山県(わかやまけん)にも十数社程(じゅうすうしゃほど)残るだけになっております。




また当社は藤原定家(ふじわらのていか)の日記 『名月記(みょうげつき)』の

後鳥羽院熊野御幸記(ごとばいんくまのぎょうこうき)」では

窪津王子(くぼつおうじ)坂口王子(さかぐちおうじ)

コウト王子(おうじ)の次に、阿倍野王子(あべのおうじ)と見え

本来(ほんらい)第四番目(だいよんばんめ)王子社(おうじしゃ)でしたが

中世(ちゅうせい)戦乱(せんらん)途中(とちゅう)王子社(おうじしゃ)が無くなり

江戸時代(えどじだい)から第二王子(だいにおうじ)と呼ばれております。




阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)鎮座(ちんざ)する当地(とうち)

古来(こらい)よりあべの」と呼ばれておりますが

これは飛鳥時代(あすかじだい)大化(たいか)改新(かいしん)

孝徳天皇
(こうとくてんのう)
難波(なにわ)長柄豊崎宮(ながらとよさきのみや)遷都(せんと)された時

奈良県(ならけん)桜井(さくらい)豪族安倍氏(ごうぞくあべし)が当地に移住したので

あべの」の地名が出来ました。




またこの時代に氏寺(うじでら)として「阿部寺(あべでら)」が出来(でき)

また氏神(うじがみ)として「阿部社(あべのやしろ)」も(まつ)られました。

阿部寺(あべでら)は現在の阿倍野区松崎町二丁目(あべのくまつざきちょうにちょうめ)本坊跡(ほんぼうあと)が有り

阿部寺千軒坊(あべでらせんけんぼう)の伝説が残る大寺(たいじ)でしたが

都が飛鳥(あすか)に戻り、安倍氏(あべし)も帰ってしまった後

四天王寺(してんのうじ)併合(へいごう)され

阿部社(あべのやしろ)衰退(すいたい)しました。




ところが平安時代(へいあんじだい)熊野信仰(くまのしんこう)(さか)んになり

熊野詣(くまのもうで)流行(りゅうこう)すると

熊野街道(くまのかいどう)沿()って王子社(おうじしゃ)が出来ましたので

当社は四天王寺(してんのうじ)住吉大社(すみよしたいしゃ)丁度中間(ちょうどちゅうかん)位置(いち)している事もあり

阿部社(あべのやしろ)熊野神(くまのしん)勧請(かんじょう)されまして

阿倍野王子(あべのおうじ)となった次第(しだい)です。




そして平安時代(へいあんじだい)天長三年(てんちょうさんねん)(八二六)

弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)淳和天皇(じゅんなてんのう)勅命(ちょくめい)

当社に来社し草堂(そうどう)(もう)けて

疫病退散(えきびょうたいさん)御祈祷(ごきとう)(おこな)った処功成(ところこうな)

痾免寺(あめんでら)(通阿倍(つうあべ))の勅額(ちょくがく)(たまわ)ったと(つた)えます。




これは当社の神宮寺(じんぐうじ)由来(ゆらい)ですが

当社もこの(ころ)から隆昌(りゅうしょう)阿倍野王子社(あべのおうじしゃ)として

朝廷(ちょうてい)熊野御幸(くまのぎょうこう)(さい)して奉幣(ほうべい)()ける(よう)になりました。




また室町時代から江戸時代にかけて

安倍晴明神社(あべせいめいじんじゃ)社家(しゃけ)であった保田家(やすだけ)

阿倍野王子社(あべのおうじしゃ)神主(かんぬし)

神宮寺
(じんぐうじ)
僧官(そうかん)()ねており

また村の庄屋(しょうや)でもありました。




最後に当神社の西側を通る熊野街道(くまのかいどう)

日本書紀(にほんしょき)」の仁徳天皇紀(にんとくてんのうき)五十八年五月条に
荒陵松林之南道(こうりょうしょうりんのなんどう)と見える大変古(たいへんふる)街道(かいどう)です。




荒陵(こうりょう)とは天王寺公園内(てんのうじこうえんない)茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)の事で

聖徳太子(しょうとくたいし)四天王寺(してんのうじ)建立(こんりゅう)した(ころ)には

(だれ)(はか)とも(わか)らず「荒陵(こうりょう)」と呼ばれており

四天王寺(してんのうじ)荒陵山四天王寺(こうりょうざんしてんのうじ)(ごう)しています。




荒陵松林之南道(こうりょうしょうりんのなんどう)安倍野街道(あべのかいどう)とも呼ばれ

海岸線の後退によって室町時代(むろまちじだい)住吉街道(すみよしかいどう)西成区(にしなりく)(あた)りに出来るまでは

紀州熊野(きしゅうくまの)(いた)本街道(ほんかいどう)として賑わいを見せていました。




top