阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ) 御由緒(ごゆいしょ)について



当神社の縁起絵巻(えんぎえまき)摂州東成郡阿倍権現縁記(せっしゅうひがしなりぐんあべごんげんえんぎ)」によれば、

当社は仁徳天皇(にんとくてんのう)によって創建(そうけん)され、

平安時代(へいあんじだい)の初期、天長(てんちょう)3年(826)弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が、

淳和天皇(じゅんなてんのう)勅命(ちょくめい)で当社に参り、疫難退散(えきなんたいさん)祈祷(きとう)(しゅう)して(こう)なり、

疫病(えきびょう)治癒(ちゆ)する寺という意味の「痾免寺(あめんでら)」(通阿倍(つうあべ))の勅額(ちょくがく)

朝廷(ちょうてい)より(たまわ)ったとされています。




阿倍野(あべの)は古代の豪族「安倍氏(あべし)」の居住した土地で、

奈良時代(ならじだい)には安倍氏(あべし)氏寺(うじでら)として阿部寺(あべでら)が存在しました。

この寺は口碑(くひ)に「阿部寺千軒坊(あべでらせんけんぼう)」と残される程の

大寺(たいじ)であったと伝えられています。




ところが平安時代(へいあんじだい)になると、安倍氏(あべし)朝廷(ちょうてい)での勢力を失い、

氏寺(うじでら)四天王寺(してんのうじ)併合(へいごう)される事になりました。




残された安倍氏(あべし)氏神社(うじがみのやしろ)でしたが、当時熊野信仰(くまのしんこう)(おこ)り、

途中の街道に熊野九十九王子(くまのきゅうじゅうきゅうおうじ)と呼ばれた沢山(たくさん)王子社(おうじしゃ)が出来ると、

当社の所在地が四天王寺(してんのうじ)住吉大社(すみよしたいしゃ)との丁度中間に存在し、

王子社(おうじしゃ)立地(りっち)相応(ふさわ)しいお宮でしたので、

当社の西門筋(にしもんすじ)熊野街道(くまのかいどう)が整備され、熊野王子社(くまのおうじしゃ)の一つとなりました。

そこで当社は阿倍野(あべの)鎮座(ちんざ)しますので、阿倍野王子(あべのおうじ)と呼ばれました。




王子社(おうじしゃ)の中には、熊野信仰(くまのしんこう)衰退(すいたい)と共に退転(たいてん)したお宮も有りますが、

(さいわ)い当社は中世以降、「阿倍野村(あべのむら)氏神(うじがみ)」として信仰され、

大阪府下では唯一(ゆういつ)旧地現存(きゅうちげんぞん)王子社(おうじしゃ)として現在に至っております。




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